酔眼漂流記

夜毎酔眼化しつつカメラ片手に未だ人生を漂流する人の記録。

雨に消えた微笑み

不思議な夢を見た。
久しく忘れていた、懐かしい女性の夢だった。
厳密にいえば、本当に彼女だったのかどうかはわからない。ただ、目覚めた瞬間に真っ先に浮かんだのが、彼女の名前だったというだけのことだ。

二十歳の頃の、ほんの短い時間の記憶である。
彼女とはバイト先で出会った。初めて挨拶を交わした時の笑顔に、一発でやられてしまった。
あの頃の僕は、躊躇なく女の子と会話ができるほど社交的ではなかったので、言葉を交わしたことはごくわずかだった。彼女は少し冷たさを感じさせる眼と、どこか寂しげでいつもつまらなそうな表情を浮かべていた。
だからこそ、ふとした拍子に見せた笑顔が、やけに鮮烈に残っているのだ。はにかんだような、控えめな笑い方。それはまさに「微笑みのお手本」というべきものだった。

彼女の笑顔を見るたびに想いを募らせていった。ある日、思い切って自分の気持ちを彼女に伝えた。
仕事中に、手近にあったメモに思いを書いて渡した。一読した彼女も、メモに何やら書き込んでいる。
「私って、人間嫌いなの」
返ってきたのは、予想を覆す言葉だった。
返事になっていない返事に、当時の僕はどうしていいかわからず、ただ立ち尽くした。
今振り返ってみれば、それは彼女なりの「防御壁」だったのではないかと勝手に思う。人と触れ合うことで生じてしまう傷から逃れるための、精一杯の盾。
そして実は、彼女なりの「自分を理解してほしい」という声だったのではないか。そんな風に、今になってから自分に都合よく解釈しては、苦い思いを噛み締めている。いわば、何十年も経ってから改めて失恋しているようなものだ。
結局、それ以上の思い出を紡ぐ時間は訪れなかった。彼女は、その後すぐに僕の世界から消えてしまったのである。
ひどく短く、不器用な恋。
二十歳の頃の、忘れかけていたはずの遠い残像だ。

あれから、ずいぶんと長い月日が流れた。
布団の中でぼんやりとその女性のことを考えていたら、急にかぐや姫の「雨に消えたほゝえみ」が聴きたくなった。あの切ないメロディが、今の気分に、驚くほどぴったりと重なるような気がしたのだ。

部屋の片隅には、愛用のPENTAX K-1 IIが置かれている。
ずっしりとした重みのあるその機械を手に取り、ファインダーを覗いてみる。レンズ越しに広がる世界は、どこまでも澄んでいて、ひどく静かだ。
現実をそのままの光で切り取る一眼レフのファインダーには、嘘がない。そこには「本当」が映し出されている。
もしあの頃、このカメラを手にしていたら。
彼女の冷めた眼の奥に隠された色を、うまく切り取ることができただろうか。
そんなことを考えて、しばらくの間、遠い思い出の中に浸っていた。